大阪府大阪市天王寺区 大江まちづくり協議会 [ わがまち大江の地域情報、文化、歴史、今後のまちづくりの発信と大江まちづくり協議会の活動報告 ]

わがまち大江

わがまちの町会

 四天王寺夕陽丘
  
  わが四天王寺夕陽丘新興町会は、平成一二年三月、上町台地の一角に位置する上本町九丁目、旧郵便貯金会館の跡地に二〇階建て高層マンションの竣工と同時に発足しました。
 当マンションの周辺には、四天王寺をはじめとする数々の神社・仏閣・史跡等があり、歴史と文化が融合した住環境の下で生活を営んでいます。
 近年の高層建築ブームの影響を受け、数年前には当マンションからの眺望が一変してしまいました。南を見れば夏の風物として名高いPLの花火、北方向に南港の景色が見て取れ、また、南西を見れば新世界の通天閣のネオンが手にとるように見られたのですが、今では場所が限定されて見ることができません。
 当町会は、当初、上九振興町会に所属していましたが、独立して独自の町会活動を行っています。とかくマンションや集合住宅において共同生活を営んでいる割には、各個人のプライバシーを重んじるのか居住者同士のコミュニケーションがなくて、閉鎖的になりがちです。当町会の活動の一つとして、こういった居住者の方々の親睦を図り、日々楽しく暮していける生活環境作りを目指しています。今日に至っても、未だに上・下階に住まわれている方や隣人にどのような方が住まわれているのか知らないと言った声が聞かれる一方で、小さなお子さんのおられる家庭の間では、活発な交流が図られているようです。
 町会の役割として役員により、大阪市などからの各種配布物を、居住者への情報提供として「回覧」を行っています。一三二世帯分を九班に手分けして実施しています。最初の頃は、居住者の中に回覧を拒否する方がおられたのですが、今はなくなりました。また、数年前になりますが、この「回覧」によって一つの出来事が発見されました。「回覧」物がある階の居住者宅で滞留していることがわかり、関係者に連絡を取り調べたところ、居住者の死亡が確認されました。先に述べたように、日常生活において隣人との付き合いもなく、総会等の会合にも参加せず、都会に住みながらの孤独死は、無常と一言で片付けて良いものでしょうか。
次に、当町会の主な年間行事を紹介します。毎年、夏から秋にかけて、貸切バス二台を利用しての日帰りツアー若しくは一流ホテルにおいて食事会を実施して、会員の皆様から好評を博しています。九月には、敬老の日に合わせてささやかな贈り物を、対象となるお年寄り一人ひとりに手渡しています。冬の一二月には、子供クリスマス会や年末の防犯警戒のため夜回りを実施して、地域安全に努めています。また、大江連合町会との交流を図ることで地域貢献にも寄与しています。
                         四天王寺夕陽丘振興町会長 西川 富雄

 上錦屋町
  
 上綿屋町新興町会は太古の時代、四天王寺の寺領内に「綿屋町」として存在していた(古地図弘化二年三月(一八四五) 浪華高麗壱丁目播磨屋九兵衛刊参照)。それは何故だろうか。
(一)地勢 上町台地は海に突き出た半島で、西には大阪湾が広がり、海岸線はすぐ足元まで迫り、東側は河内湖が広がっていた。(2千年前)なお、大江の岸に地続きということで新佛分離後の社名を大江神社としたと記録されている(大阪市史大正十一年より抜粋)。古代、大江の岸と交流が深かったと推定される地名が現在の天満橋から繊維の本町一帯にかけて多くある。例えば中央区の糸屋町、船場、中大江、南大江の小学校名など。
(二)産業 河内平野の木綿は有名で田畑の七〇%は綿作地で綿にかかわる人は全戸数の半分を占めたといい、品質は全国一で繰綿より木綿糸を索き諸國に送ったという(攝州平野大絵図・産物より)。要するに古代の四天王寺は河内平野の木綿、生産地を背景として立地条件を生かし、寺領内に多かった木綿の卸問屋、貝の釦など加工、販売した流通業者をそのまま人材として確保し、「綿屋町」とし、大江の岸から現在の本町方面、諸國出荷したと考えられる。
(三)聖徳太子 十七条憲法七に「曰く、人には各人佳有り、掌ること宜しく濫ならざるべし」。(以下略)聖徳太子は世俗的にいうならば、人々の特徴を有効に生かし大切にした立派な経営者(あまりにも畏れ多い表現をお許し下さい)であったと思う。将来を見据えた卓越した総合力は ひたすら驚嘆するばかりである。
 以下は余談であるが上綿屋町が四天王寺寺領の一部であったことを証明する事実を紹介して 筆したいと思う。あるマンション建設の少し前平成八年夏であった。教育委員会の方が陶器の破片を丁寧に集めているので私も破片を手にとり「これは何ですか?」と聞くと「青磁の破片で、大変高価な物です。きっとこの当りは高僧の住居跡ではなかったか」と言われたのを思い出す。
                                        文責 南隈 昇
                              上綿屋町振興町会長 彦坂 晃
 夕陽丘町
  
  皆さん今日は。わがまち夕陽丘町の歴史についてお話しさせていただきますと、新古今集の選者にして藤原時代末期5代の天皇に仕えた歌人藤原家隆が喜禎二年(一二三六年)七九才の時にこの地に庵をつくって隠棲し、翌年八〇才の春の彼岸にこの地より西の海へ入る夕陽を見て「契りあればなにはの里に宿りきて、波の入日を拝みつるかな」とうたい、この歌の「波の入日」の意から夕陽丘の名稱が生まれたといわれています。また、天王寺七坂の一つ口縄坂にある浄春寺は暦学者麻田剛立、画家 田能村竹田の墓所があり、春陽軒には国学者 尾崎雅嘉、十三まいりで有名な太平寺には医家 北山寿安ら江戸時代に活躍した先人の墓があり、家隆塚に隣接した稱念寺には陸奥宗光の実父宗広の碑、そして宗光の娘を慎む清地蔵等があり、多くの著名かつ由緒ある寺院や史跡が存在し、歴史的に貴重な地域でもあります。
 一方、わがまち夕陽丘は上町台地に位置し、住環境は抜群に良いところであるため高層マンションができ、旧住民と新住民が仲良く混在しためずらしい町となっております。また夕陽丘町振興町会は昭和五六年(一九八一年)五月に椎寺元町振興町会より分離独立し設立され、現在一二班・二五〇世帯の町会員皆さんのもと 春・秋の焼き肉パーティを「ちびっこ広場」で開催、参加費大人三百円、子供二百円の超安さで開催しております。毎回、どこからこんなに沢山の人がおるんやろと思うほどの盛会で近隣の親睦を深めております。特に春は「観桜会」と銘うって長屋の花見ではいですが老若男女集まって好評を博しております。
 また、秋には日帰りか一泊二日のバス旅行を企画、実行しております。予算にも制限がありますので役員さんは下見をして皆さんに喜んでもらえるよう苦労しておりますが、昨年(平成一九年)一〇月には若狭・小浜方面にバス旅行をいたしました。丁度その時NHKの朝ドラ「ちりとてちん」がテレビで放映されており、グッドタイミングで皆さんに喜んでいただきました。 町会行事はそんなところですが、その他に夕陽丘町では盛大に行われている「祭り」があります。六月には大阪で一番早い祭りで有名な愛染祭があり、七月には大江地域の氏神さんである大江神社の祭りには山車・みこしが出て大人・子供参加のもと二日間それこそ祭り気分です。そして八月には四天王寺支院の真光院での地蔵盆があり、河内音頭でゆかた姿の女性方の盆踊りが行われます。我々、子供の頃は この六月・七月・八月の三か月勉強が手につかなかったことを思い出されます。
 いづれにいたしましても、わがまち夕陽丘町は今年改選されました二〇名の役員さんと一二名の班長さんとで「住みよいうるおいのある町」そして「緑と安心の町」この二つのコンセプトをもって活動してまいりたいと思っております。
                              夕陽丘振興町会長 平岡 昭伸


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